仏教:すべてが移ろうなかで、残りたいと願ってよいのか?
このシリーズのテーマは、何かを遺したいという願いです。仏教は、まさにその願いを問い直します。哲学シリーズ第9回では、この異論に真剣に向き合います。
すべては移ろう
多くの仏教の伝統では、存在の三つの特徴が説かれます。無常(anicca)、苦あるいは満たされなさ(dukkha)、そして無我(anatta)です。何ひとつ、そのままとどまるものはありません。私たちが「私」と呼んでいるものでさえ、固定した核ではなく、さまざまなプロセスの流れなのです。
苦の原因は渇愛、パーリ語で「tanha(タンハー)」、文字どおりには「渇き」だとされます。その形のひとつが、何かになりたい、存在し続けたいという渇望です。この考え方に従えば、自分自身を超えて残りたいという願いは、解決ではなく、問題の一部ということになります。
正直な異論
この指摘を、理屈で片づけてしまうべきではありません。忘れられることへの恐れだけから生まれた取り組みは、もっとも純粋な形の執着です。安らぎを約束しながら、不安を生み出してしまうのです。
それでも、受け渡すこと
その一方で、仏教ほど、受け渡すことを徹底して土台に据えてきた伝統は、ほとんどありません。ブッダの教えは、紀元前1世紀にスリランカで書き留められるまで、何世代にもわたって口伝えで受け継がれてきました。今日に至るまで、教えは師から弟子へと伝えられています。
日本には、辞世という伝統もあります。禅僧や詩人たちは、死の直前に最後の詩を書き残しました。その多くは、深い静けさをたたえています。それは生への執着ではなく、意識的な別れであり、同時に、あとに残る人たちへの贈り物でもあるのです。
論理的な帰結
仏教は、何かを遺すことを禁じてはいません。問われているのは、その姿勢です。書き方には二通りあります。ひとつは「私を忘れないで」と言う書き方。もうひとつは「私はこれを学びました。役に立つものがあれば、受け取ってください」と言う書き方です。前者は執着であり、後者は惜しみなく与えることです。
もうひとつ、大切な点があります。定期的に振り返ること自体が、マインドフルネスのひとつの形だということです。毎日、自分に正直な問いを投げかける人は、自分の人生をより意識的に受け止めるようになります――その答えを誰かが読むかどうかに関わらず。そして、あとになって昔の答えを読み返す人は、「私」がどれほど変わったかを自分の目で確かめることになります。そのとき無常は、脅かすものではなく、目に見えるものになるのです。
さらに考えるための3つの問い
- あなたが書くのは、忘れられないためですか? それとも、何かを贈るためですか?
- 受け渡したいと思えるほど、あなたを助けてくれた気づきは何ですか?
- いつか過ぎ去るとわかっていながら、しがみついているものは何ですか?