道教:死して亡びざる者
不死の探求は、シリコンバレーが発明したものではありません。古代中国では、それは国家の一大事でした。そして道教の思想家たちは、この問いにまったく異なる二つの答えを出しています。哲学シリーズ第4回です。
皇帝たちの霊薬
中国最初の皇帝である秦の始皇帝は、紀元前3世紀、永遠の命をもたらす霊薬を探させ、海にまで探索の一行を送り出しました。霊薬が見つかることはありませんでした。その後の時代にも、不死をもたらすはずの霊薬によって命を落としたとみられる皇帝が何人もいます。そうした霊薬には、水銀などが含まれていました。
宗教としての道教にも、「仙人」という考え方がありました。修行や錬丹術、節制した暮らしによって死を克服したとされる人々です。肉体を保ちたいという願いは、とても古いものなのです。
荘子は歌う
哲学者の荘子は、まったく違う響きをもっています。妻が亡くなったとき、友人が訪ねてみると、荘子は鉢を叩きながら歌っていました。友人は憤慨しました。荘子はこう説明しました。はじめは自分も、ほかの誰とも同じように悲しんだ。けれどもやがて、妻はただ大いなる変化のなかへ還っていったのだと理解した。春のあとに夏が来るのと同じように。妻は今、天地という大きな家で安らいでいるのだ、と。
死して亡びざる者
道教の根本となる書『道徳経』の第33章には、短く謎めいた一句があります。「死して亡びざる者は寿し」――死んでも滅びない者は、長く生きる者である、と。
解釈はさまざまです。よく知られた読み方のひとつは、これは肉体の話ではなく、その後も影響を与え続けるものの話だ、というものです。水はやわらかいのに、石を形づくります。それと同じように、人は自分が動かし始めたものを通して生き続けるのです。
論理的な帰結
道教は二つの道を示しています。ひとつは、霊薬とコントロールによって、永続を力ずくで手に入れようとする道。もうひとつは、流れに任せる道です。生きていたものは、その後も影響を与え続けると信じるのです。
私たちの何が残るのかという点で言えば、それは、しがみつくのではなく受け渡していく、ということです。心を動かされたことを書き留め、ほかの人へと流していきましょう。記念碑としてではなく、流れ続ける水のように。
さらに考えるための3つの問い
- あなたが動かし始めたもので、あなたがいなくても続いていくものは何ですか?
- 手放したほうが楽なのに、しがみついているものは何ですか?
- 自分のどんな部分が、とどまるのではなく流れていくべきでしょうか?